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    こゝの当主はもう七十近い老人だが、まだ郡制のあつた先年まで郡の医師会長だつた人で、この地方での一二と云はれる有力者でもあつた。それに相当な地主だ。その政治上の勢力や小作人関係などからきている彼の家と患者との関係は一朝一夕になつたものではない。今では老医師の正文は半ば隠居役で、息子の練吉といふ若医師が診察の方はひきうけているのだが、中には「老先生の患者」といふ者もある位だ。

    私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗リフラクシオンを感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓らちのない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。

    今それを思ひ浮べたとき、房一はふいに一種の怒気を感じた。それは疾やましさのないはげしい敵意、何かしらぐつと相手を地面まで押しつぶしてしまひたいほどの、腹の底からこみ上げて来る得体のしれない力だつた。

    その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。

    「さうなんです。ちやうどいゝ案配でした」

    だが、急に機嫌をとり直した。そして、徳次が彼の口から聞くことでどんな表情になるかを期待しながら、ゆつくり相手の顔を見て云つた。

    小谷は最近になつて、徳次と同じやうに、急に房一と親しくつき合ひはじめた一人だつた。もつとも、彼は徳次とちがつて房一の幼馴染ではなかつた。先代の築き上げたかなり手広い呉服雑貨店をそつくり継いだ、云はば生え抜きの河原町の連中だつた。その彼が房一に興味を持つにいたつたきつかけは、房一の妻の盛子と彼の妻の由子とが偶然同じ町の生れで、もとはそれほど親しくはなかつたが小学校での二三級違ひだつたことが判つてからのことである。盛子よりもずつと若い年にこの土地に嫁に来た由子は、今までろくに気の合つた話相手を持たなかつたので、この偶然をひどく悦んだ。それ以来、由子は裏手の土手づたひにしばしば盛子の所へ来ては話しこみ、盛子も由子の所へ行つた。由子はすでに二人の子持だつたし、その上、小谷が妾に産ませた子供を引取つていた。その妾が死んだからである。小谷の放蕩はうたうは由子が来る前からのものだつた。今はどうにか自然と止まつているが、由子は結婚以来殆ど楽しい思ひをしたことがないほど小谷の放蕩に悩まされた。そのあげくに、妾に産ませた子を引取らねばならないとなつた時に、由子は又一つ苦労の種を背負ひこむことになると思つたが、小谷の放蕩に悩まされるよりもこの方がどれだけましかしれないと考へて引受けた。こんなことを、つまり、娘の時以来何の面白い日もなく、彼女にとつての「人生」といふものを見、いつのまにか若さが自分から失はれてゆくのを空しく眺めるやうな、これらすべてのことを由子は今までどんなに他人に向つて話したかつたらう、打明けて心の底まで慰めてもらひたかつたらう、――今や、その得がたい相手が現れたのだつた。吾々が、男と女とを問はず、この世の中で真の友人を見つけるのはほんの僅かな又微妙なきつかけからだ。昨日までは別にそれほどでもなかつた、この茫漠とした捉つかみがたい世の中でやはり捉みがたい者としてしか現れない数しれない人達、その中から或る人の姿が突然身近かにかけがひのない者として感じられ、その人の心がこちらのすぐ胸の傍にあり、心はたがひに行き交かひ、温め合ひ、それによつてこの世の中そのものが今までよりもはるかに広く、なほ確かに感じさせるやうなもの、――それを由子は盛子の中に見つけたのだ。

    だが、盛子の場合とちがつて、道平のそれはもつと重かつた、そして、もつと直接だつた。これが普通の患者に対するときだと、たゞ聴診器を持つて坐つただけでよかつた。何も考へないで、感じないで済んだ。ところが、道平を診るとなると、この医者らしさがどつかへふつ飛んでしまふのであつた。判断ができないわけではない、だが、判断以上の何かしら得体の知れないものが彼の自信を失はせるのだつた。できることなら、医者としてではなく、単に息子として父親の傍に坐つていたかつた。医者の仕事は誰か他の人に任せてしまひたかつた。

    一座はしづまり返つていた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つていなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いていなければならぬとは!

    気がつくと、房一はさつきよりもぽつと明い、青味を帯びた中を走つていた。いつのまにか月が出たのだ。鉄橋を渡つて、町の中に入つた。月明りはこの人気の少い町一杯に輝いて、うるんで、物の形を一様な柔い調子の中でくつきりさせていた。

    「こゝの消防演習をやつたのだ。そんなに騒ぐことはない」

    とてもそんなことは!といふ風に房一は答へた。

    それは何となく「素人しろうとくさい」滑稽な云ひ方だつた。手こずつた主人がしらせたので、徳次の家からは家内のときが駈けつけて来た。泣いてとめた。半ば耄碌もうろくした父親も足をひきずつて来た。だが、騒ぎが大きくなるにつれて、徳次は前後を忘れてしまつた。はじめは煩うるさがつていた鬼倉もたうとう脅おどすつもりで短刀を抜き食卓の上に突き立てた。徳次は瞬間ぐつと大きく開けた眼をその白く光るものの方へ近づけた。もう何だかよく判らなかつたのである。やがて、突然、彼は見た。その不気味な白い刃を。或る一つの意識が、その危険さを認め、身ぶるひをさせた。が、すぐに、あの忘れがたい憤り、血に対する恐れと、それに反撥する怒りとがいつしよになつて噴き上つた。だが、次の瞬間には、酔ひの廻つた彼の頭はその光るものを忘れさせた。たゞ怒りだけがのこつて、燃えて、それも何かしらあたりの泣き騒ぐ音とごつちやになつてしまつた。彼は、鬼倉にぶつかつている気で、しきりと食卓の堅い縁にはだけた胸をすりつけながら叫んだ。

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